情報教育をもっと充実させるべきだ.私は基本的にそう考えている.
現在,小学校から中学校,高等学校へとつながる初等中等一貫の情報教育のあり方が議論され,情報教育をより体系的に位置づけていく方向に進んでいる.一方,高等教育や人材育成政策に目を向けても,デジタル,AI,データサイエンスなどを含む理系分野を重視する動きが強まっている.私は,こうした方向性についても基本的には推進の立場である.これからの社会を考えれば,情報技術について学ぶ機会を広げることは重要であるし,理系分野を学ぶ人を増やしていく必要性も理解できる.
しかし,だからこそ,少し気になっていることがある.
情報教育がすべての児童・生徒に広がり,さらに政策的な誘導を伴う理系重視の推進とも相まったとき,「情報が好きな子」が増える一方で,「情報が嫌いな子」も一定数現れるのではないか,ということである.
もちろん,情報教育を行うから情報嫌いが生まれる,という単純な因果関係を主張したいわけではない.数学を学ぶ人すべてが数学を好きになるわけではなく,英語を学ぶ人すべてが英語を好きになるわけでもない.教育の対象が広がれば,得意な人,苦手な人,好きになる人,嫌いになる人が現れるのは自然なことである.
ただ,「情報」は少し事情が違うように思う.
情報技術は,もはや特定の専門家だけが利用するものではない.スマートフォン,Web,SNS,生成AI,データ活用,行政サービス,仕事上のコミュニケーションなど,社会生活のさまざまな場面に浸透している.そう考えると,学校教育の中で形成された「情報は難しい」「プログラミングは自分には関係ない」「コンピュータは苦手だから触りたくない」といった感覚が,卒業後まで固定化してしまうことは,単なる一教科への好き嫌いでは済まなくなる可能性がある.
情報教育を普及させることと,情報に対して肯定的な態度を育てることは,同じではない.
むしろ情報教育を本格的に「全員の教育」にしていくのであれば,次に考えなければならないのは,「情報を教えること」だけではなく,「情報嫌いを生まないこと」ではないかと思っている.
そこで私が以前から考えているのが,情報を,いかにも「情報らしい入口」から教えなくてもよいのではないか,ということである.
たとえばプログラミングである.
プログラミング教育というと,画面にプログラムコードが表示され,変数,条件分岐,繰り返しといった概念を順番に学び,最後に何らかのプログラムを完成させる,という姿を想像しやすい.もちろん,それは重要な学習方法である.一方で,初めから「今日はプログラミングを勉強します」と提示された瞬間に,「難しそう」「自分には向いていなさそう」と感じる学習者もいるだろう.
であれば,入口を変えてみればよい.
「プログラミングを勉強する」のではなく,
「ピクトグラムを作ってみる」
ところから始めるのである.
人型ピクトグラムの腕を動かす.足を動かす.歩かせる.複数の人を登場させる.何らかの状況や意味を表現する.「飛び出し注意」を動きで表してみる.バレーボールをしている様子を表してみる.自転車に関する注意をアニメーションで表現してみる.
学習者が考えているのは,「どうすればこの動きになるだろう」「どうすれば相手に意味が伝わるだろう」ということである.しかし,その裏側では,逐次実行,同時実行,繰り返し,条件分岐,変数,動作の再利用など,プログラミングに関わるさまざまな概念に自然に触れることになる.
つまり,情報を学ぶことを前面に出すのではなく,表現やデザインを入口として,結果的に情報の考え方に出会うのである.
私は,こうした学びを単に「ピクトグラムを使ったプログラミング教育」とは考えていない.むしろ,少し大きく言えば,
「プログラミング教育からピクトグラミング教育へ」
という発想で捉えている.
ここでいう「ピクトグラミング教育」は,プログラミング教育を否定したり,置き換えたりするものではない.プログラムを書くことそのものを出発点にするのではなく,ピクトグラムをつくる,動かす,組み合わせる,意味を表現する,そして他者に伝えるという活動を出発点として,その過程でプログラミングや情報の考え方に触れていく教育である.
「プログラミング」という言葉から入ると身構えてしまう学習者であっても,「ピクトグラムを作る」「人型を動かして意味を表現する」という活動であれば,異なる構えで参加できるかもしれない.
そのために開発しているアプリケーションの一つが「Hyper Pictoch(ハイパーピクトッチ)」である.
Hyper Pictochでは,文章が書かれたビジュアルブロックを組み合わせ,人型ピクトグラムや物体にそれぞれ異なる動作を設定できる.記法を覚える必要がなく,文法エラーも基本的に発生しないため,プログラミング初学者でも作品制作そのものに意識を向けやすい.
また,単に人型を一体動かすだけではない.複数の人型や図形を組み合わせ,それぞれに動きを持たせることができるため,一つの「作品」を作ることができる.
ここで大切にしているのは,最初から「正しいプログラムを書く」ことをゴールにしないことである.
「こんな動きをさせたい」
「こうしたらもっと伝わるのではないか」
「この人を先に動かしたい」
「二人を同時に動かしたい」
「同じ動きを何度も使いたい」
こうした表現上の欲求が先にあり,そのために必要になった仕組みとしてプログラミングの概念に出会う.私は,この順序が結構大切なのではないかと考えている.
つまり,
「プログラミングするためにピクトグラムを使う」のではなく,「ピクトグラムで表現しようとした結果,プログラミングしていた」
という学びである.
これが,私が「ピクトグラミング」という言葉に込めているものでもある.
もちろん,Hyper Pictochを使えば情報嫌いがなくなる,などと言うつもりはない.そんなに単純な問題ではない.
しかし,情報教育がこれからますます広がるのであれば,「どれだけ多く教えるか」と同じくらい,「どのような入口を用意するか」を考える必要がある.情報やプログラミングが好きな児童・生徒だけを想定して教育を設計することはできない.最初から興味がある人もいれば,そうでない人もいる.得意な人もいれば,苦手意識を持つ人もいる.
だからこそ,情報教育にはいろいろな入口があってよい.
コードから入る入口があってもよい.ロボットから入ってもよい.データから入ってもよい.音楽や美術から入ってもよい.そして,ピクトグラムから入る入口があってもよい.
気づいたら人型ピクトグラムを動かしていた.
気づいたら作品を作っていた.
気づいたら他者に伝わる表現を考えていた.
そして,振り返ってみると,実はプログラミングの考え方を使っていた.
Hyper Pictochで目指しているのは,そんな「情報っぽくない情報教育」である.
初等中等一貫の情報教育を推進するからこそ,「情報が好きな人」を増やすことだけでなく,「情報を嫌いにならない人」を増やすことも考えたい.
情報教育の裾野を広げるとは,学ぶ人数を増やすことだけではないはずである.入口そのものを広げることもまた,情報教育の裾野を広げることだと思っている.
そして,その一つの方向性として提案したいのが,
「プログラミング教育からピクトグラミング教育へ」
という発想である.
Hyper Pictochは,そのための一つの入口として開発している.